2016年12月21日水曜日

[徒然なる雑記]純粋理性批判を読んで企業価値ってなんだろうかと悩む

カント哲学には「物自体」という概念がある。

ある日、カントという変人のおっさんが考えた。
ひとはどうやって物を認識しているのだろうと。
そうして、このおっさんは、次のような考えにたどり着いた。



人が物を認識するには、下記プロセスを通過する。
「物」→「感性」+「悟性(Understanding)」
(悟性という難解な単語を使って分かりにくいさね、(たしか翻訳者である)西周め~といつも思う)

よく分からん?抽象的なものはいつもそうです。
大丈夫ですカッパに任せてください。
カッパを認識するにはこのようなプロセスをたどるのです。

「物」
 カッパ
  ↓
「感性」
 ・人の形をしている
 ・全身が緑色
 ・黄色いくちばし
 ・頭にお皿(断じてお皿である。HAGEではないことに留意していただきたい)
 ・背中に甲羅
 ・生臭い
「悟性」
 ・これはカッパである

しかし、カッパを認識するには限界がある。
このカッパが、いつ生まれたのか、身長が何センチなのか、体重が何キロなのか、
今日魚を何匹たべたのか、内臓がどうなっているのか等々は全てを知ることはできない。
我々は視覚や嗅覚や触覚といったものでしか我々はカッパを認識できないのだ。
カッパの全て(カッパという「物自体」)を理解することはできず、
人が認識できるカッパには限界が存在しているのだ。

では、「企業価値」を我々はにんしきできるのだろうか?
無論、私達が認識できる企業価値には限度がある。

多種多様な情報「有価証券報告書」「IR」「社員の口コミ」「社長の公演」・・・。
しかし、それらを勘案しても本当の「企業価値」を知ることはできない。
情報の非対称性が存在していなくても、我々が認識できる「企業価値」は、
それらの情報に基づいて行われた認識の限界内での産物でしかない。

だからこそ、各人によって取捨選択された情報によって認識は異なり、
また、同じ情報をインプットされたとしても誰も正確な企業価値を求めることはできない。
その認識は株式市場によってすり合わせが行われる。
株価とは中期的長期的にすりあわせた結果として「企業価値」に近いものが形成されていくプロセスなのだ。


酔っ払いうとわけの分からないことを考えます。
株の素人が考えることは僭にして妄ですね。では。

0 件のコメント:

コメントを投稿